1.同じ系列の作品としては、「変身忍者嵐」や「怪傑ライオン丸」などがある。ただ嵐やライオン丸の場合、主人公は忍者やさすらいの浪人であり彼らは社会の裏側にあって、決して表には出てこない存在である。時代設定もはっきりしていない。
2.これらの作品と比較してみると、白獅子仮面の時代設定は江戸時代しかも18世紀前半の享保年間とはっきりしている。なぜなら、白獅子仮面に変身する「剣 兵馬」(つるぎひょうま)は忍者や浪人などではなく、江戸南町奉行大岡越前の懐刀といわれる与力だからである。れっきとした幕臣(将軍にお目見えの許されない御家人ではあるが)であり、今で言えば国家公務員である。当然事件も江戸の町を中心にして起こるため、時代劇のセットが必要であり、京都で撮影されている。本格的な時代劇であり、かなり異色である。
☆ 作品解説 ☆
白獅子仮面はまさに京都の職人が結集して生まれた作品である。また、妖怪モノとしての側面も持っている。
毎回様々な妖怪の登場するテレビ映画といえば、水木しげる原作の「悪魔くん」や「河童の三平妖怪大作戦」が60年代に製作されていたが、70年代の変身ブームの中で妖怪を敵に設定したのは白獅子仮面が初めてだった。
放送当時のアピールポイントもまさにそれであり、カラカサ小僧やのっぺらぼうなど、誰でも知っているおなじみの妖怪が登場することが雑誌や新聞でアピールされていた。
しかし、なぜか初期の四話分では「妖怪」ということばがまったく使われていなかった。
第一話に登場したのも狼仮面という、名前からしてあまり妖怪っぽくないキャラクターであり、
本当に妖怪モノとして売り出そうとしていたのか疑問に感じる部分もある。
時代劇ということもあってイメージ的には「妖怪百物語」を始めとする大映妖怪シリーズに近いものがあるが、
妖怪を徹底的に悪役に仕立てているところが大いに異なる点である。
しかも同種の妖怪の着ぐるみが毎回三〜五体ほど製作され、映像では着ぐるみの数以上に見せることが多かった。
敵キャラは毎回一体というのが暗黙の了解だった当時の特撮番組において、これはかなり贅沢なことだ。
また、明暗をくっきり映し出すライティングは妖怪の迫力を増すのに実に効果的だった。
また、妖怪の不思議な妖力を巧みに具現化しており、特に第二話でカラカサ小僧の群れが空中から次々と急降下してくるシーンは圧巻であり、シリーズを通して最高の場面と言えるだろう。
ただ、他の回は特撮と言える場面は少なく、 白獅子仮面に倒された妖怪の身体が消え去る際に合成が使用されているくらいだった。
≪物語の背景≫
江戸時代中期(享保年間)、江戸の町では妖怪が引き起こす奇怪な事件が頻発していた。
火焔大魔王が日本を我が物とするために、配下の妖怪を使って事件を起こしていたのである。
この妖怪に立ち向かうのが、江戸の治安を預かる町奉行大岡越前とその配下の与力、剣兵馬であり、彼が白獅子仮面に変身して妖怪たちを倒すのである。
白獅子仮面に変身する場面では、得意の二丁十手を頭上で合わせて「獅子吼(ししく)〜」と叫ぶ。
日本侵略を企む火焔大魔王を相手に、町奉行とその配下のみというのは戦力的に厳しい。将軍はともかく、老中や若年寄といった幕閣が出てこないのはスケールが小さい印象を与えてしまう。
しかし、劇中その理由が説明されている。江戸時代、江戸の治安を守るのは町奉行だけではない。
当時の江戸には町人が住む領域の他に、武家屋敷や寺社なども存在し(面積的には武家や寺社の方が大きい)、ここには町奉行の権力は及ばない。
武家は目付や大目付が、寺社には寺社奉行がそれぞれ治安の任に当たっているのである。
すなわち江戸全体の治安を守ろうとするならば、町奉行・寺社奉行・目付・大目付が力を合わせる必要があるのである。
大岡越前は江戸城に赴いた折にその旨を進言したらしいが、「事件は町方でのみ起こっているため、寺社奉行も大目付も取り合ってくれない」と語っている。
つまり寺社や武家屋敷では事件が起こってないから協力しないと言われたのである。
江戸時代の行政は現代以上にセクショナリズムが強く、充分に考えられる話である。
だから、白獅子仮面の世界では妖怪軍団に立ち向かうのは、大岡越前とその配下の与力や同心のみという厳しい状況が続くのである。
☆ 打切り ☆
1.スタッフが時代劇専門のエキスパートであったため、荒唐無稽さと時代劇らしさの微妙なバランスを保ち、たとえ主人公がパンタロンや赤い陣羽織を身につけていても、ちゃんと時代劇に見えるように工夫されていた。
2.こうして、本格的な特撮テレビ時代劇としてスタートした白獅子仮面であるが視聴率は振るわず、13回の放送で打切りとなった。
☆ 失敗の原因 ☆
1.剣兵馬は生身でも結構強く、武器は二丁十手と少々物足りないがこれで妖怪の一体や二体なら倒してしまうほどである。もちろん白獅子仮面になれば、よりパワーアップするが、光線などの必殺技がないため、白獅子仮面に変身する必要性を感じなかった。
2.明暗をくっきり映し出すライティングや、本格的な時代劇の作りとは裏腹に妖怪の着ぐるみは安っぽく迫力不足であり、正義の味方であるはずの白獅子仮面の方が無表情で不気味に感じられ、
視聴者である子供達の共感を得られなかった。また、敵役である妖怪の位置づけも迷いが感じられたり、白獅子仮面誕生の設定などが曖昧で、番組のコンセプトが確立されていなかった。
3.しっかりとした時代劇の作りであったために意外性に乏しく、物語に広がりを与えることができなかった。
4.ライティング効果を狙ってか夜のシーンが多かったが、そのために画面が暗く、アクションヒーローというより、妖怪映画のような暗さがあり、視聴対象の子供には受け入れられなかった。
5.人間ドラマの部分が脆弱で、なぜ時代劇の設定にしたかが分からない。そのために妖怪を妖怪(白獅子仮面は神仏の力のようだが、容姿は妖怪のようである為)が倒しているだけの話になってしまっている。
☆ 得られた教訓 ☆
白獅子仮面は、もしかしたら早すぎたのかもしれない。現代のように多種多様の価値観が認められるのなら、深夜番組などで人気が出る可能性はあると思われる。
しかし、その場合も本格的な時代劇を許容する予算の確保が課題である。
白獅子仮面は、特撮テレビ時代劇として1960年代に大ヒットした「仮面の忍者赤影」を越えようという意気込みが強かったと思われる。
前年に放送されて好評だった「怪傑ライオン丸」が忍者を主人公にしていたのに対して、幕府の役人である奉行所の与力を主人公にしたのは、新しい試みであった。
特撮テレビ時代劇として定番の「主人公は忍者」を止めて、赤影のような、UFOや怪獣が出てくる荒唐無稽な路線から、本格的な時代劇へと舵をきって新境地を最初に開拓するつもりであったと考えられる。
幕府の与力という設定は、奉行所を「地球防衛軍」にみたて、その主力隊員という意味合いであったのだろう。
しかし、ウルトラシリーズの防衛隊が様々な武器を持って巨大な怪獣や宇宙人に立ち向かったのに対して、奉行所で使える武器は刀(主人公にいたっては十手である)のみであり、戦う相手も迫力不足の着ぐるみ妖怪である。
これでは、子供の興味を引くことは困難である。特に1970年代は、特撮番組と玩具メーカーのタイアップが始まった時期でもある。
玩具メーカーは特撮番組のスポンサーとなり、番組内で使用された兵器や怪獣を商品として販売して売上を伸ばした。
本来、特撮番組は費用がかかり、予算の確保が悩みのタネであったが、この方式が確立されたことにより、継続が可能となった。
平成に復活した仮面ライダーも同様である。
白獅子仮面は玩具化という観点で見ると発展性に乏しく、本格時代劇という費用を要する番組であったにも関わらずスポンサーの確保という課題でも難点があった。
更に、変身ヒーローと言えば「仮面ライダー」であり、仮面ライダーの変身ベルトは子供達の憧れのアイテムであった。白獅子仮面にもライダーの変身ベルトを模したと思われるものが装着されていたが、欲しいと考える子供はかなり珍しいというモノであった。
変身ヒーローの主軸は確実に「改造人間」である仮面ライダーに移行しており、事実、同じ1973年にスタートした「魔人ハンター
ミツルギ」は12回で視聴率が振るわず打切りとなり、前年好評だった怪傑ライオン丸の後番組である「風雲ライオン丸」も1年の予定が半年で終了となった。
これらの事から考えると、白獅子仮面は企画をもっと検討する必要があったのである。
時代劇としてのおもしろさを視聴者にどのように訴えるかや、良質なスポンサーを確保する方法を吟味すべきだったのである。
マーケティング戦略は、市場に対して明確なコンセプトを主張して消費者の共感を得る必要があるのである。
自己満足や仲間内の共感だけでは通用しないのだ。しかし、多くの企業では未だに一部の人間の考えだけで商品や企画が生み出される。
もし、自分の会社がおかしな動きをしているなら、勇気を持って声を上げて欲しい。 白獅子仮面は、最終回で火焔大魔王と相討ちとなり星になった。
しかし、私達はプロジェクトを失敗して星になるわけにはいかないのである。